筆跡の個性を大切に

筆跡鑑定のはなし

「自分の筆跡が気に入らない」

手書き文字が必要とされる場面で,「私,自分の字がきらいなんだよね」とか,「字が下手だから恥ずかしい」など,誰にも何も言われていないのに,告白する方がいらっしゃいます。

弊所へお越しいただき,鑑定依頼を受け賜わる際には,「鑑定依頼申込書」にご記入いただくのですが,書き終えて,そうおっしゃりながら手渡されるシチュエーションに,何度か遭遇しています。

そんなとき私は,こう答えます。

「個性的な文字をお書きになりますね」

大きさや文字間隔に均整がとれた,美しい文字をお書きになられている。謙遜されるタイプの方に,多くお見受けいたします。

美しい文字を書く

そう,私が物心ついた時には,雑誌の広告などでよく見かけた「ボールペン字」。
家族が申し込んで,家にテキストがあった時期があり,実際に書いた文字がきれいになっていましたので,かなりの効果があるのだろうと思います。

筆跡鑑定人になり,ご依頼を受け賜わるうちにも,気が付くことがあります。

それは,あるときを境に文字が変化し,きれいになっていくのです。分かりやすいのが「日記」です。毎日のように書かれますので,変化していく様子が大変よくわかります。
更に日記を読み進めると,判で押したようにきれいな文字だった筆跡が,今度は徐々に個性を持ち始めます。その筆跡の個性は,以前の文字が持っていた癖に近くなるのですが,均整がとれているので,読みやすいままで固定されるようです。

これは,とてもうまくいった例と言えるでしょう。なぜなら,「ボールペン字」でのトレーニングの前後の文字が,筆跡鑑定で文字資料として使用できるからです。

近年多くみられる「幸せになれる(?)」筆跡

十数年前から,女性週刊誌やテレビのバラエティー番組で見かけるようになったものの一つに,「筆跡を変えて,幸せになる」というものです。「筆跡診断」とも称しているため,「筆跡鑑定」とGoogle検索すると,そのようなページが混在して表示され,煩わしいのですが,自己啓発の一種として人気があるそうです。

変わった筆跡サンプルこんなイメージです。

誰にでも,上昇志向や改善欲求はありますし,筆跡鑑定人として,こういったものの根拠がどこから来たのか?といった興味もあります。書籍も一通り目を通していますので,例としては少ないですが,依頼のあったお客様に,サービスとして添削したこともあります。

この程度で済めばただのお話として終わるのですが,度を越してしまい,弊害が生じた例があります。

変な形の文字ばかりの遺言書

依頼人は,故人のご兄妹で,故人である女性は生涯独身,会社員として勤め,質素な生活のせいもあり,遺産と呼べる,まとまったお金があったそうです。

女性は60歳を迎えた日,奇特にも遺言書を残していました。それからひと月もしないうちに交通事故で死亡。故人の兄に警察から連絡が入ったのは,亡くなってから2日後のことだったそうです。
警察で一通りの手続きを済ませ,葬儀の準備の最中に,故人の部屋の冷蔵庫の中から,ビニール袋に入れられた「遺言書」と書かれた封筒が発見されました。
葬儀や,部屋の後片付けなどが終わるまで開封しないようにと,兄妹間で示し合わせ,念のため裁判所で検認を受けることとしましたが,検認当日,開封された遺言書を見て,兄妹たちは驚きました。

  • しんにょうの最後の部分が,右上に大きく跳ね上がった「遺」字
  • 「口」の部分が極端に大きい「言」字
  • 左払いが極端に長く,へんとつくりの間隔が開いた「私」字
  • その他,極端に丸みを帯びたり,図形のような文字など・・・

見慣れない,奇体文字ばかりの遺言書が出てきたのです。

「あいつの字と違うよなぁ。」兄が開口すると,妹も「お姉ちゃん,こんな字書かないよ。」

文字の印象とは別に,遺言内容が,身の回りの整理を済ませ残ったお金を,全額福祉施設へ寄付することだったこともあり,二人は,「ニセモノの遺言書じゃないか?」という疑念で一致し,突然の交通事故や,冷蔵庫の中から出てきた遺言書と奇体文字,突飛な全額寄付など,全てが怪しく感じられ,お二人でご相談に見えられました。

ご本人の筆跡は,流麗な行書体

ご相談の時に,年賀はがきやお手紙など,お二人が故人から受け取られ保管してあった,日常的な筆跡の資料をご持参いただきました。中には,その年の年賀はがきが含まれ,遺言書の書かれた日付に近く,書式も縦書きで,筆記具も遺言書と同じタイプの水性ボールペンで書かれている手紙などもあり,筆跡鑑定の資料としては十分なものでした。

ただし,遺言書に見られる奇体文字は,ただの一つもないのです。

私は,遺言書の奇体文字を指さしながら,こういった文字が書かれる背景や,その効能(?)等を説明し,故人に,そういったものに傾倒する性格があったかなどを尋ねましたが,お二人とも否定的でした。しかし,手紙のやり取りはあるものの,最後に会ったのは数年前の母の葬儀で,普段は仕事で留守が多いため,電話することもないということなので,最近の様子はご存じないのだろうと察しました。

鑑定結果は「同一人」の筆跡

あっさりと鑑定作業は終了しました。文字の一部や全体の印象を変えても,文字の線一本一本はまで変えることはできず,また,かなり変わった筆順をされる個性をお持ちで,そこまでは変えられなかったようです。鑑定作業の途中で感じたのですが,この方は,「筆跡を変えて,幸せになる」文字の練習をし始めて,日数が少ないころに遺言書を作成していたようです。同じ文字が最初と途中と最後に出てくるのですが,最初は気張って奇体文字を書き,文中では気が緩んだのか,元の文字に戻りつつあり,最後は気を取り直して再び奇体文字を書くという,怪文書などに見られる「韜晦筆跡(とうかい-ひっせき)」に近い特徴が見られたためです。

結果報告の際,お二人は最初,納得できないといったご様子でしたが,鑑定作業の顛末をお話しすると,兄は「あいつ,寂しかったのかな」とつぶやかれ,今後について,弁護士を紹介してほしいと言われました。その後,葬儀や後片付けの実費を差し引き,弁護士さんがお調べになった方法で,残りのお金を寄付されたそうです。

ちなみに,鑑定料は差し引かず,お二人で折半となったそうです。

故人にも,その兄妹にも悪いところはなく,事象だけ見れば「遺産を寄付した女性と,その遺志を汲んだ兄妹」と映るのですが,遺言書がそれまでの文字で書かれていたなら,筆跡鑑定にお金を使うこともなかったでしょう。

しかしこれが,もっと練習が進んでいたらどうなっていたか,弊害のタマゴの段階で筆跡鑑定を行えてよかったな。と思う案件でした。