種田山頭火”最後の日記”一草庵日記の偽筆を解明

筆跡鑑定で種田山頭火の偽筆を暴く

遺言状、契約書…。どの筆跡鑑定もそれに関わる人の人生に影響があるものであり、どれも同じように大切なご依頼です。心して取り組まなくてはならないと日ごろから考えています。

その中でも、先日行った筆跡鑑定の結果が社会的にも偽りを正す結果となるとは、お受けしたときには思いもよりませんでした。

いつもとは少し違う依頼

2020年6月15日、当所に1本の電話がかかってきました。それは、いつもの筆跡鑑定とは少し違う内容の依頼でした。電話の主は古川富章様。長野県在住の種田山頭火の研究者です。絶筆とされている山頭火の日記の筆跡鑑定が依頼内容でした。

種田山頭火は、昭和初期に活躍した自由律俳句の代表的な俳人です。「漂泊の俳人」として知られ、諸国を放浪しながら数多くの俳句を詠みました。

終焉の地となったのが愛媛県松山市。死の直前までの日記が、支援者であり俳人仲間でもあった高橋一洵により保管されていました。その原本を一洵が筆写・清書したものを、同じく仲間であった大山澄太が『愚を守る』として昭和16年に刊行します。とくに死の直前・最終期時代の日記は『一草庵日記』として知られています。そこでは、昭和15年10月6日の日記が絶筆となっていました。

時は下り、昭和47~48年にかけて大山澄太により『定本山頭火全集』が出版されます。このときは一洵が保管していた山頭火本人による原本が見つからず、やむなく『愚を守る』から『一草庵日記』をそのまま転載しました。

最終巻の校了も終わっていたある日のこと。高橋一洵の息子である高橋正治氏により、新たに日記が発見されたとコピーが澄太のもとに持ち込まれます。それは従来発表のものと相違のある10月6日の日記が2編、さらに完全に知られていなかった7日・8日の日記でした。大発見と言える、まさに絶筆が見つかったのです。澄太は急遽コピーの内容を最終巻の7巻に追加して出版します。

その後、所在が分からなくなっていた本人の筆による原本が再び見つかります。昭和56年に、原本を再現印刷した『原本復刻/山頭火終焉の松山』が高橋正治氏により刊行されました。しかしここで思いもよらない事件が起こります。

この山頭火の原本と、一洵筆写がもととなった『愚を守る』『一草庵日記』を比較すると、複数の著しい違いが発見されたのです。その多くは『山頭火全集』が新版として発行されるときに原本通りに修正されました。しかし最大の問題がそのままにされてしまいます。それが「新発見」の10月6日~8日の日記です。不自然な点が多数あり偽作が疑われながらも、そのまま残されてしまったのでした。

いつもの筆跡鑑定のように

古川様とはお電話をいただいたときが初めてで、面識はありませんでした。山頭火の研究家の方がいらっしゃることすら存じ上げなかったのが正直なところです。古川様はさまざまな点から偽作を疑っていらっしゃいました。たとえば山頭火は日付の横に二重の罫線を必ず付すのに、「新発見」部分にはそれがありません。正式なご依頼のあと電話で鑑定内容を詰め、この10月6日~8日部分の筆跡鑑定を行うこととなりました。

それまでも、歴史上の人物や著名人の筆跡鑑定を十数名したことはありました。とはいえ、山頭火は名前ぐらいしか知りませんでした。

筆跡鑑定を引き受けたときも、特別な気持ちはありませんでした。客観的でいられるようにという理由もあります。一番の懸念材料は、比較対照する真筆がどれぐらいお借りできるかということでした。それによって鑑定精度が変わるからです。

強まっていく疑念

先入観を持つと鑑定結果に悪い影響が出てしまいます。いつものことではありますが、筆跡鑑定を始めた時点では真筆・偽筆のどちらの可能性が高いかという考えはありませんでした。

鑑定方法はいつも通りです。まず鑑定資料(今回は6日~8日の日記)に描かれた文字を種類ごとに分けて集計します。次に対照資料(今回は山頭火の真筆)に共通した文字がどの程度書かれているか調べます。そして共通文字を抜き出して文字ごとに比較検討するのです。

進めていくうちに、「偽筆の可能性がある」そう思いました。鑑定資料と対照資料の間に、違いが見つかったのです。

初めに気づいたのは筆順の違いでした。

種田山頭火”一草庵日記”の真筆(本人の筆跡)

たとえば「思」の文字。「心」の形は確かに似ています。しかし「田」の部分から「心」へつながる順序が、鑑定資料と真筆で異なっていました。

また「感」の文字もそうでした。真筆では「咸」を書き終えてから「心」へと続いています。しかし鑑定資料は、「咸」の「口」から「心」へ続き、最後に「咸」の右半分を加えていました。

さらに文字や送り仮名にも違いが見つかります。真筆では「遣」の文字を使っているところを、鑑定資料では「遺」と誤用していました。「お祭り」「お祭」と、送り仮名の違いもありました。

このように、1つではなくいくつもの異なる点が出てきたのです。

文字の向こうにいた書き手は本当に山頭火なのか。誰が、どんな思いでこれを書いたのか。作為なしに無心で書いた日記なのか、意図があって書かれたのか。書きながらどんな表情をしていたのか…。

相違点の数が増える度に、これを書いたのは山頭火ではないという思いがますます強まっていきました。

種田山頭火”一草庵日記”の偽筆(他者の筆跡)

筆跡鑑定の結果

筆跡鑑定を終え、確信しました。

これは偽筆である、と。

複数の相違点が見つかりました。同一人物によって書かれているなら、時期を空けず連続して書かれる日記でこのような違いはありえません。

たとえば、同じ字を今日から昨日までと違う書き順で書くことがあるでしょうか。ふつうはないと思います。

昨日まで正しく書けていた文字を、今日から違う文字で書いてしまうということがあるでしょうか。昨日までと違う送り仮名を使うことがあるでしょうか。

もしもそれぞれ「ある」と言われたとしても、その変化全てが同じ日を境に起こるでしょうか。

どのような気持ちで書いたか・どのような意図があったかまでは筆跡鑑定で推し量ることはできません。しかし別人が山頭火の筆に似せて書いたものに間違いはありませんでした。文字には別人の特徴が現れていました。

鑑定結果をまとめ、古川様に結果をお送りしました。お送りした結果を得て、古川様よりメールをいただきました。分析と検証について詳細かつ合理的とのお言葉をいただき、満足いただけたこと、特殊な鑑定依頼を引き受けたことへの感謝といった内容がていねいに綴られていました。

50年の時を経て本来の姿へと

古川様は筆跡鑑定の結果を受けて、雑誌への記事の投稿など地道な活動を積み重ねられました。その結果、新聞や週刊誌でも報道され、ついには(今年5月、)山頭火全集の出版社自らが贋作部分をカットし真筆の10月6日で終わる内容に全集を改訂しました。50年近く加えられたままだった捏造部分がなくなり、本来の姿に戻ることになったわけです。

古川様とやり取りした中で、私が古川様にお送りしたメールを転載したいと思います。古川様のご尽力への敬意と、その一助となれた安堵とが現れていると思います。

「メールを拝見しましたが,ここに至るにはひとえに古川様がお声を挙げられたことによる御功績と存じます。
恐らくこのようなことは前代未聞。後世まで語り継がれることになると思いますが,種田山頭火の作品のみを純粋に味わえる状態になったのですから,古川様は山頭火ファンからも偽筆を排除したことを未来永劫称賛されることになると存じます。
私も及ばずながら,事実をありのままに伝えることに腐心する日々を送っておりますが,このたびのお知らせは大変励みとなり,また,古川様から御依頼いただいた種田山頭火最後の日記(疑惑部分)について,書籍として販売される全集から削除されたということは,はばかりながら鑑定結果も社会的賛同を得られたと解釈しても差し障りはないのかなと感じております。」
※2022年5月10日メール本文から抜粋(ママ)

今改めて思うこと

筆跡鑑定人としては,これまでにも遺言書等の偽筆を見抜いて真偽を明らかとしてきました。この案件に際しては,種田山頭火の絶筆とされてきた部分が偽筆でした。そしてその部分は彼が死の直前にたどり着いた境地として、長い間あまたの山頭火ファンにとって心の拠りどころになっていました。しかしそれは、第三者の創作だったのです。

偽筆した本人が発表したわけではありません。しかしこれは読者を誤解させてきた行為であり、放置してはいけないことだと考えます。偽筆がいかに罪の重い行為であるかということを再考させられた案件でした。

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Posted by 鑑定人 田村真樹